よい感覚とわるい感覚...木原孝一
 よい言葉とわるい言葉...黒田三郎
 それぞれ、別ページで論じられているが、簡単には扱うことが難しいので、概要だけを取り上げておきたい。
 悪いリズムなどというのはすでに有名無実である。
 正確には「リズム」があるとは言えない状態であるからだ、
 ...と、山本太郎は断じる。
 今回も清岡卓行の解説となる。私はアレゴリーについてよりも、清岡の批評にわが意を得たりと感じるところがあるので、それを取り上げたいわけだね。それで、記事そのものは、初学者に参考になるだろうと、考えてもいるのだ。
 象徴とは、ある魂の状態と外界の何ものかを投影・反響させ合って、そこに一種の親密な合体感をかもしだすことで、
 その交錯し合った関係、照応(コレスポンダンス)と呼ばれている効果は、音楽に一番近いといえる、と清岡卓行はいう。なぜ、このような方法論が求められたのかは、歴史的な理解や日欧の差異、さらには文学運動についての考察も必要であり、雑誌記事の範囲を超えると。
 この項目の担当は関根弘だけれど、適任とは言いがたいかと思う。前衛芸術をリードしてきた関根にとって、比喩ということはあまり重要な詩の要素ではないからだ。
 彼は語る。「詩を書く場合に、比喩が不可欠なものであるかといえば、必ずしもそうではない。どのような心の世界を詩と考えるかによって、動員される言葉の種類が決まるのだ。たとえば、シュルレアリスムの造形世界にあっては、比喩はそれほど重要な意味を持たない」、と。
 前回の続きとなる。この項目担当者である木原孝一はわるいイメジを三つあげている。
・最もわるいイメジ...不精確なイメジ
・次にわるいイメジ...古い観念をそのまま持っている場合
・その次にわるい...イメジのためのイメジ
 時々、そうする必要を感じて啓蒙的なことを書いたりするのだけれど、そのようなものを書くときはできる限りバランスをとるようにしている。記事自体のバランスということもあるけれど、ある種の風潮の横行に対しては、徹底的に批判することでパラダイムの中におけるバランスをとるということもある。デイベート的な立場であって本意でない場合もあるけれど、それが啓蒙ということだから。 
 数日まえ、「世間的」には「変」な夢をみた。「私」的には意味があるはずだけれど。
 朝方、腰痛を覚えながらうとうとしていた。夢の中で、4、5歳くらいの男の子がひとり、私の足元にまとわりつくようにして、こう言った。「神様が、あなたのウ○コを買いに来ます!」 だってさ。

 どうも中途半端な気がして、自分のやるべきことに取りかかれない。日本語の様々な可能性について、現在の第一人者ともいえる野村と四元の試みを、リストアップして、ガイダンスとしておきたい。



 自分の日常的生活について詩作者はどういう態度をとっているのか?とチェックをしてみると、それが表現論と深く結びついていることがよく分かる。
 谷川俊太郎の例を持ち出すまでもなく、詩で描写された日常生活がすなわち作者の私的生活であると考えることはありがちな誤解なのだといえる。

 ちょっとした時間待ちのために、古書店で吉本隆明の『読書の方法』を買って読んでいたら、重要と思われる事柄が書いてあり、取り上げることにした。
 今回は「修辞的な現在」について、『読書の方法』から遡って、検討しておきます。